備忘録2
今日は前回書いた「四諦(したい)」の第2回目で「苦諦(くたい)」について記して行きます。
お釈迦さまが、まず知ったことは「この世は苦である」ということでした。
「苦しみ」の本質を見極めることから悟りの道は始まりました。
人は、生まれて生きる苦しみ、病にかかる苦しみ、老いる苦しみ、死への苦しみを背負って生きています。
この苦しみ「生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)」を四苦(しく)といいます。
その「苦」の原因は「我執(がしゅう)」にあり、我執とは、自我に執着して、さまざまな「欲」にとらわれている状態のことを言います。
皆様方がよく使われる言葉「四苦八苦(しくはっく)」は、「生・老・病・死」の四つの苦に、次の四つを足して出来た言葉です。
①愛別離苦(あいべつりく)・・・愛するものと出会っても、いずれは離れ死に別れなければ
ならない苦しみ。
②怨憎会苦(おんぞうえく)・・・嫌いな人、憎む人とも出会わなくてはならない苦しみ。
③求不得苦(ぐふどっく)・・・・・求めるのが得られず、思い通りにならない苦しみ。
④五蘊盛苦(ごうんじょうく)・・・五蘊(人間の体を構成する5の要素)に執着する苦しみ。
「四諦」を病気治療に例えると
苦諦(くたい)・・・病気の診断をする
↓
集諦(じったい)・・・病気の原因を判断する
↓
滅諦(めったい)・・・病気の原因を除去すれば治ると判断する
↓
道諦(どうたい)・・・実際に治療方法を実践していく。
と言うふうになります。
次回は、「集諦(じったい)」、「滅諦(めったい)」について書いて行きます。
今日は前回書いた「四諦(したい)」の第2回目で「苦諦(くたい)」について記して行きます。
お釈迦さまが、まず知ったことは「この世は苦である」ということでした。
「苦しみ」の本質を見極めることから悟りの道は始まりました。
人は、生まれて生きる苦しみ、病にかかる苦しみ、老いる苦しみ、死への苦しみを背負って生きています。
この苦しみ「生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)」を四苦(しく)といいます。
その「苦」の原因は「我執(がしゅう)」にあり、我執とは、自我に執着して、さまざまな「欲」にとらわれている状態のことを言います。
皆様方がよく使われる言葉「四苦八苦(しくはっく)」は、「生・老・病・死」の四つの苦に、次の四つを足して出来た言葉です。
①愛別離苦(あいべつりく)・・・愛するものと出会っても、いずれは離れ死に別れなければ
ならない苦しみ。
②怨憎会苦(おんぞうえく)・・・嫌いな人、憎む人とも出会わなくてはならない苦しみ。
③求不得苦(ぐふどっく)・・・・・求めるのが得られず、思い通りにならない苦しみ。
④五蘊盛苦(ごうんじょうく)・・・五蘊(人間の体を構成する5の要素)に執着する苦しみ。
「四諦」を病気治療に例えると
苦諦(くたい)・・・病気の診断をする
↓
集諦(じったい)・・・病気の原因を判断する
↓
滅諦(めったい)・・・病気の原因を除去すれば治ると判断する
↓
道諦(どうたい)・・・実際に治療方法を実践していく。
と言うふうになります。
次回は、「集諦(じったい)」、「滅諦(めったい)」について書いて行きます。
タグ :備忘録
仏教について、自分なりに法話やネット、書籍などで集めた情報を忘れないように書きとめておくために「備忘録」のカテゴリーを作りました。
備忘録その1「四諦(したい)」
お釈迦さまが最初に説法した時(初転法輪・しょてんぽうりん)に説いたと言われている「四諦(したい)」について、数回に分けて書き記します。
「四諦」は、お釈迦さまが説いた聖なる四つの真理の教え「四聖諦(ししょうたい)」の簡略形と言われています。
諦(たい)という字は「諦(あきら)める」という字で、「物事を断念する」などに使われますが、本来は「あきらかにする」、「つまびらかにする」という仏教語でした。
釈尊が説いた「四諦」=4つの真理とは、
苦諦(くたい)・・・・・・人生は苦しみに満ちているという真理
集諦(じったい)・・・・その苦の原因は、煩悩にあるという真理
滅諦(めったい)・・・・その煩悩を滅した状態が悟り・涅槃(ねはん)であるという真理
道諦(どうたい)・・・・その煩悩を滅する方法が八聖道であるという真理
つまり、「煩悩(ぼんのう)によって苦しみが生じ(集諦)、人生は苦しみに満ちているが(苦諦)、八つの正しい実践方法によって(道諦)苦しみを消滅し、涅槃に到達することが出来る(滅諦)」となります。
次回は、「四諦」について、その②です。
備忘録その1「四諦(したい)」
お釈迦さまが最初に説法した時(初転法輪・しょてんぽうりん)に説いたと言われている「四諦(したい)」について、数回に分けて書き記します。
「四諦」は、お釈迦さまが説いた聖なる四つの真理の教え「四聖諦(ししょうたい)」の簡略形と言われています。
諦(たい)という字は「諦(あきら)める」という字で、「物事を断念する」などに使われますが、本来は「あきらかにする」、「つまびらかにする」という仏教語でした。
釈尊が説いた「四諦」=4つの真理とは、
苦諦(くたい)・・・・・・人生は苦しみに満ちているという真理
集諦(じったい)・・・・その苦の原因は、煩悩にあるという真理
滅諦(めったい)・・・・その煩悩を滅した状態が悟り・涅槃(ねはん)であるという真理
道諦(どうたい)・・・・その煩悩を滅する方法が八聖道であるという真理
つまり、「煩悩(ぼんのう)によって苦しみが生じ(集諦)、人生は苦しみに満ちているが(苦諦)、八つの正しい実践方法によって(道諦)苦しみを消滅し、涅槃に到達することが出来る(滅諦)」となります。
次回は、「四諦」について、その②です。

先だって、渓流庵に来られた方の中に暦やカレンダーに書かれている「大安や仏滅など」の事を大変気になさる方がいました。
暦やカレンダーに書かれている「先勝(せんしょう)・友引・先負(せんぷ)・仏滅・大安・赤口(しゃっこう)」の6種類ことを六曜(ろくよう)と呼びます。
六曜は、カレンダーの暦注(れきちゅう)の1つで、「結婚式は大安の日が良い」とか「友引は葬儀は避けたほうが良い」など、現在は主に冠婚葬祭などで使われいますが、
六曜の歴史は以外に新しく、本格的にカレンダーや暦に記載されるようになったのは明治以降のようです。
六曜の中には、「仏滅」や「友引」など仏教と関係があるかのような表現がありますが、仏教とは全く関係がありません。
「友引」も元々は、「共引」と書いて「相引き合って(共に引き合って)て勝負なし(勝ち負けが無い)」という日だったのです。
ところが何時の日から「友引」と変化して「寂しく亡くなった人が、葬儀に参加した友人をあの世に引っ張って行く」と言うふうに変わってしまいました。
もちろん「仏滅」もお釈迦さまが、亡くなった日ではありません。
「全てに空(むな)しい」と言う事から「物が滅する(失う)」こと「物滅」となり、「物」が「仏」に変わって、現在のような「仏滅」になったようです。
元々「六曜」は、勝負事に関する内容が多かったため、一説によれば、「ゲンを担ぐ」ことから元々賭場の遊び人や勝負師などの間で用いられたのではないのかと言われています。
ですから、「六曜」に関係なく葬儀や結婚式を行ってもなんら問題はありません。
暦やカレンダーなどの吉凶や占いなどは参考程度にして、極端に捉われずに生活して行きましょう。
写真は、「キリンソウ」です。

昨日、告別式参加の為伊江島へ行ってきました。
妹の義父が亡くなったためでした。
94歳の天寿を全うしての大往生でした。
本部港から出港するフェーリ「いえしま」も喪服を着用した方々も多く見受けられました。

本部港を11:00に出港して、はとば食堂で昼食をとり、13時から告別式でその終了後、直ぐに荼毘に付されました。
告別式会場の直ぐ隣が火葬場になっていました。
それから最終便の16時発の本部港行きで帰ってきました。
長年、農協の役員を務め伊江島の発展に尽力を尽くされた方だけあって、村の斎場は大勢の人で一杯でした。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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初転法輪(しょてんぽうりん)とは、お釈迦さまが初めて仏法の教義を人々に説いた事を言います。
お釈迦さまは、菩提樹の下で、49日間の瞑想を経て悟りを開きますが、その内容が非常に難しく、人々に教えを説いても理解されないであろうと思い、説法をするのを躊躇します。
しかし、バラモン教の主神である「梵天(ぼんてん)」と「帝釈天(たいしゃくてん)」が、お釈迦さまにお願いして、衆生(=人々)に仏法を説くように勧めます。
この事を「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」と言います。
実際には、お釈迦さまと苦行を共にした5人の仲間がいる街「サールナート(鹿野苑・ろくやおん)」に行って、この5人の仲間に説法した事を言います。
また、この「初転法輪」の「法輪」とは、古代インドの戦いの武器であるチャクラムのことを言ったそうです。
仏教の教義が、魔群を蹴散らす武器に例えられて、教義(法輪)を他人に伝える事(転)を「転法輪」と言うようになったようです。
「法輪」は、仏教のシンボルとして信仰され、写真のようにインド国旗にも使われています。
写真は、こちらからお借りしました。

長いゴールデンウィークも終了しましたね~。
連休のお疲れはありませんか~?
サラリーマン時代は、長い連休の後に仕事モードに切り替えるのが、大変だたことを思い出します。
特に4月入社の新人社員は、少し仕事に慣れたかなーっと思ったら、直ぐに連休ですから余計に大変です。
さて、今日の早朝はメジロの鳴き声がすごかったです。
多分、ほったらかしガーデンの黒木あたりに止まって鳴いていると思うのですが、
オスとメスが互いに声を掛け合っているように鳴くんですね~。
まるで夫婦で会話をしているような感じで、清々しい気分のいい一日の始まりでした。
メジロに感謝です。
写真は、「宮崎観光写真」からお借りいたしました。
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今日から5月です。
青空の下に鯉のぼりが、泳ぐ季節と言いたいところですが、沖縄は梅雨に入ったばかり。
曇り空の下でも頑張って泳いでいる、青い鯉のぼりの姿がけな気に見えます。
さて今日は、何時もお世話になっていますご住職の言葉を紹介いたします。
本気を出せば、なんでも出来る。
本気を出せば、誰かが助けてくれる。
(私たちが仏さまに祈る時、本気になってお祈りすれば必ずかないます。)
(私たちが仏さまに向き合う時、本気になって向き合えば必ず仏さまが助けてくれます。)
本気を出して!がんばろー!
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沖縄気象台は本日午前11時に「沖縄地方が梅雨入りしたとみられる」と発表しました。
平年より11日早く、昨年より2日早い梅雨入りらしいです。
例年、6月23日の慰霊の日くらいまでの約2ヶ月間沖縄では長雨の季節になります。
さて本日は、真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)の総本山智積院(ちしゃくいん)のポスターにあった言葉を紹介します。
「仏さまと出会う」
私たちが
仏さまに祈る時
仏さまはいつも
私たちを
見つめています
私たちが
仏さまに向き合う時
仏さまは
私たちの心の中に
息づいています
仏さまのまなざしは
いつも私たちに・・・・・・・
「誰でも仏さまと出会えます。誰でも悟りを開くことが出来ます。この身このままで。」
弘法大師空海のお言葉です。
がんばりましょう!!
タグ :その他

前回は、人としてこの世に生を受けるのは大変難しいと言うお話をいたしました。
今回は前回の続きで、「雑阿含経(ぞうあごんきょう)」という経典にある「盲亀浮木(もうきふぼく)」と言うお話しを紹介します。
「盲亀浮木」
ある時、お釈迦さまが「大海の底に目の見えない亀が棲んでいて、その目の見えない亀が、100年に1度だけ水面に浮かび上がってきます。
ちょうどその時に、大海を漂っている浮木あり、その浮木の真ん中に穴が開いています。そのたった1つの穴から、
その亀が頭を出すことが一度でもいいから出来るだろうか?」と、お弟子さんに聞きました。
すると、弟子の1人の阿難(あなん)尊者が「そんなことは、ほとんど考えられません」と答えました。
お釈迦さまは、「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うでしょう。しかし、全く無いとも言い切れません。
人間に生まれるということは、今の例えよりも更に有り得ないほど難しいことなのです」とおっしゃっておられます。
せっかく授かった大切な命です。
一日一日、無駄にしないで生きて行きたいものです。
写真は、「アジサイ」です。
タグ :経典

午後3時くらいまでは曇っていたのですが雨になりました。
パソコンに向かってブログ更新の記事を考えていると、雨音が聞こえて来ました。
雨音に聞き入っていると、突然元気の良い赤ちゃんの声が聞こえてきます。
その時ふと思ったのが、毎朝お唱えする「お経」の中の1つ「三帰礼文(さんきらいもん)」の1文です。
「三帰礼文」は、仏教徒の基本である「三宝(さんぽう)=仏・法・僧」に帰依(きえ)することを表したものです。
仏(ぶつ=仏、如来)・法(ぽう=仏、如来の教え)・僧(そう=仏、如来の教えを授ける僧侶およびその集団)を拠り所(=帰依)として生活をすることを誓うことです。
その「三帰礼文」の最初に出てくる言葉が「人身受け難し、今既に受く(じんしんうけがたし、いますでにうく)」です。
「人として、この世に生まれて来ることは大変困難であるが、ようやくこの世に生まれて来た。その命を無駄にしないで、日々大切に生きて行こう」と言う意味になると思います。
しかし、あまりにも多くの方々が、人は、人としてこの世に生まれことが当たり前のように思っているようです。
今地球上には、人や虫、魚、鳥、草など300万から1,000万の種があるそうです。
と言うことは、人間として生まれる確率は、300万分の1あるいは1,000万分の1ということになります。
さらに、1億~4億の精子の中から卵子と受精できるのは、普通は1つです。
つまりは1億~4億分の1の確率で私たちは生まれてきているのです。
せっかくいただいた命!大切にしたいものです。



